比叡艦長は、薩摩藩出身の田中綱常(最終階級は少将)。オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世より勲章を下賜された。 トルコもイギリスもロシアも、日本や東南アジアのように台風や暴風雨に慣れていなかったでしょうから、こうした事故が起きてしまったのでしょうね……。, 事件事故は痛ましいものですが、結果、国の架け橋になったりする。 トルコの人々は、それを忘れずに日本人を助けに来てくれたのです。その事件こそ、エルトゥールル号遭難事件です。 明治23年(1890)9月16日夜半、台風の荒れ狂う和歌山県串本沖で、オスマン帝国(オスマン・トルコ)の軍艦エルトゥールル号が遭難。 「火のないところに、煙は立たない」 という諺があるように、 噂が起こるには、何か必ず原因がある。 トルコ人が親日家と騒がれている大きな原因として、 日本とトルコとの間で起こった、ある歴史的事実がある。 それは明治23年に、和歌山県沖で起こった、 エルトゥールル号事件である。 ザックリと説明しよう。 オスマン・パシャ司令官率いるトルコ海軍の 大型木造船であるエルトゥールル号は、 当時、様々な理由があって、日 … イランから自国民を救い出すために、官民の飛行機が飛び交います。, 救い出すためにはやはり飛行機を飛ばさなくてはいけませんが、自衛隊は海外派遣が禁じられているため動けず。 普通なら大いに悔しがるところでしょう。, しかし同国では、東京開催を祝福ムード。他ならぬ首相のエルドアン氏が安倍首相にハグして祝福したというニュースもありました。, トルコは遠く離れた親日国です。元を辿れば明治時代にキッカケとなる事件がありました。, 明治二十三年(1890年)9月16日、トルコ(当時はオスマン帝国)の軍船が現在の和歌山県串本町沖で遭難しました。 「エルトゥールル号のお礼です」 スエズ運河を通ってイスラム諸国やインド・香港などに立ち寄り、約11ヶ月で横浜へ到着しました。, まず、多くの船員がコレラにかかってしまっていました。 トルコと日本の国家間の親交は 1873年岩倉使節団の頃 から始まっていたようですが、国民が親日感情を抱くようになった注目すべき出来事は、1890年のエルトゥールル号事件でしょう。 と言っていたとか。, 事件から既に90年以上の時が流れており、当事者達は全て世を去っていたにも関わらず、「国同士の恩」として救助を引き受けてくれたのです。, もちろん、自国民の救助も忘れていません。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 親日国として知られているトルコですが、何故親日なのかご存知でしょうか? トルコと日本の間では歴史の中で様々な関わりがありましたが、今回はその中から特に有名な出来事を4つピックアップしてトルコと日本が絆を深めた理由をご紹介したいと思います。 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. 彼らが滞在したのは約40日間で、予定より長くなっておりました。, ご存知のとおり、この時期はまさに台風シーズンど真ん中であり、昔から船旅には危険な季節です。 トルコ人用には陸路と自動車を確保し、約500名が脱出したそうです。, その後はエルトゥールル号の件とあわせて、この件も日本・トルコ間の友好を示すものとして語り継がれています。, 実は明治時代の日本では、エルトゥールル号を含めて外国船の海難事故が大きなものだけでも三件起きています。, 1877年11月19日のロシア軍艦アレウト (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}). 「嵐を恐れて出航できない!」 トルコは世界一の親日国と言われるように、涙なくして語れない歴史があります。映画『海難1890』もその歴史から生まれ、日本の総理大臣やトルコ大統領両国首脳らも支援しています。今回は、トルコ在住の筆者が、トルコが親日国だと現地で感じる8つの理由を詳しくご紹介します なんて苦境を世界に知られるわけにはいきませんでした。, こうして無理に横浜を出航したエルトゥールル号。 スポンサーリンク 和歌山県インターネット放送局 http://www.pref.wakayama.lg.jp/nettv/index.html Enjoy the videos and music you love, upload original content, and share it all with friends, family, and the world on YouTube. トルコ人はみな親日的だと言われている。 エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890年(明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号 (Ertuğrul Fırkateyni) が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件 。 エルトゥールル号遭難事件 . トルコ人用には陸路と自動車を確保し、約500名が脱出したそうです。 その後はエルトゥールル号の件とあわせて、この件も日本・トルコ間の友好を示すものとして語り継がれています。 というかこの申し出を断るしかなかったのです。, 本国から「一度は追加費用出すけど、二回目は無理だから早く帰って来い!!」と厳命されていたのでした。, 遡ること十数年前の1878年。 「世界一の親日国(地域)」ともいわれる台湾は、やはり日本人にとって旅がしやすい国。日本語が話せる人が比較的多いうえ、町なかで日本語や日本の商品を目にする機会も多く、台湾の人々にとって日本はきわめて身近な国であることが実感できます。 日本人観光客が多いゆえに、日本語メニューを用意しているレストランや、日本語で接客してくれる土産物屋なども多く、日本との距離の近さを感じます。 台湾では、1990年 … 露土戦争(ろとせんそう・ロシアとトルコは不仲で、過去に10度以上も戦争をしている)が起き、イスタンブール近郊まで攻め込まれて敗北しており、近代化を急いだ反動で多額の借金があったのです。, そんな状況だったので、かつては地中海を制したほどのオスマン帝国海軍が、 トルコ人は親日家が多く、世界的にみても親日国として有名です。日本から遠く離れたトルコでなぜ親日家が多いのか、それは両国の歴史的が大きく影響しています。この記事では、トルコ人が親日になった背景やトルコ人と日本人の共通点、インバウンド事情について解説していきます。 トルコが“世界一”の親日国となる端緒として知られる「エルトゥールル号事件」である。 電気通信網が整っていない時代に、この事故発生がいち早く中央政府に報告できた理由は、樫野崎灯台の存在に … エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890年(明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号 (Ertuğrul Fırkateyni) が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件[1]。, 木造フリゲート・エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた小松宮夫妻のコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)訪問に応えることを目的として、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へ派遣されることとなった。, エルトゥールル号は船体の整備を受けたうえで1889年7月14日にイスタンブルを出港し、数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11か月をかけて1890年6月7日にようやく日本へ到着した。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、同年6月13日にアブデュルハミト2世からの皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。, エルトゥールル号は艦齢26年の老朽艦だったうえ、補給品の不足や乗員の経験不足などもあり、そもそも極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が大変な幸運だとみられていた。そして出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、1890年9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールル号の消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側はその制止を振り切って帰路についた。, このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。, 1890年9月16日21時ごろ[2]、折からの台風による強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突し、座礁した機関部への浸水による水蒸気爆発が発生した結果、22時半ごろに沈没した[2]。これにより、司令官オスマン・パシャ(ドイツ語版)をはじめとする600名以上が海へ投げ出された。, 樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った[2]。, 通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功した。その一方、残る587名は死亡または行方不明という大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。, その後、付近を航行中だった船に大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡のために神戸港へ向かった。神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸[2]の和田岬消毒所[3][4]へ搬送・収容された。沖村長は県を通じて日本政府に通報し、それを聞いた明治天皇は政府に可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金や弔慰金も寄せられた。, 日本海軍のコルベット艦である「比叡」と「金剛」が遭難事故の20日後の10月5日、東京の品川湾から出航し、神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けた[2]。, なお、 例)帰蝶、織田信長, 本サイトはリンク報告不要です。 1890年和歌山県串本沖でおきたトルコ軍艦エルトゥールル号の海難事故。串本町大島村へ打ち上げられたトルコ人を大島村の人々は献身的に救助しました。それらは時を超えイラン・イラク戦争で窮地にたたされた多くの日本人を救うことにつながります。 エルトゥールル号事件とは,こうです。 明治23年,トルコの使節団が軍艦エルトゥールル号という船で日本を訪れました。 およそ3か月間,日本で友好を深めた後,トルコに戻るため出港します。 中には義捐金を持ってイスタンブールまで行き、現地で店を開きながら日本語や日本について教えた山田寅次郎という人もいました。, 船員救出に加え、こうした事後の支援に対してオスマン帝国は親日感情を抱いたといいます。, 交渉が難航したため、両国が正式に国交を結んだのは1925年の話ですが、その間もエルトゥールル号の件は語り継がれていきます。, 3月17日に突然フセイン大統領(当時)が「今から48時間経ったら、イラン上空の飛行機は全て攻撃対象とする」と宣言したのです。 同時期に日本でコレラが大流行していたため、長旅で疲れていた船員達にもあっという間に感染者が続出してしまったのです。, その回復を待ち、司令官オスマン・パシャは9月15日に出航を決定。 1886年10月24日のイギリス商船・ノルマントン号事件, アレウトは北海道沖で座礁し、ノルマントン号はエルトゥールル号と同じく和歌山県沖での沈没でした。, どちらも直接的な原因は暴風雨によるもの。 彼らは疲れた体に鞭打って崖を這い登り、灯台守と付近の漁村に助けを求めました。, 台風で漁ができず、食料もわずかしか残っていた村人たちは、非常食や衣類を惜しみなく分け与えました。, 結果、69名の命は救うことができましたが、600人以上いた乗員のうち、582名が溺死となる大惨事となってしまいました。被害者の中には、司令官オスマン・パシャも含まれています。, 助かった船員達は一度神戸の病院に送られ、10月5日に改めて日本海軍の船でイスタンブールに向けて出発し、無事に本国へ帰ることができました。, このとき奇遇にも、後に日露戦争で活躍することになる秋山真之らが同行していたそうです。, 各新聞にも大きく取り上げられ、官民での支援が行われます。 1890年(明治23年)9月16日夜、 オスマン帝国最初の親善訪日使節団を乗せた軍艦 「エルトゥールル号」が串本町樫野埼沖で 台風による強風と高波により座礁し、沈没しました。 この事故により587名の命が奪われる大惨事となりましたが、 事故の知らせを聞いた大島島民の懸命の救助活動により69名を救出することができました。 この遭難に際し、大島島民が行った献身的な救助活動が、 それからトルコの人々の間で語り継がれ … 日本側も当然のように忠告しました。, 「船も損耗しているようだし、その状態で嵐に遭ったらひとたまりもないですよ。台風の時期は避けたほうがいい」 「全て」ですから、戦闘機だけでなく民間機も含まれます。, これを聞いた各国は大慌て。 1985年3月12日の毎日新聞夕刊は「テヘラン爆撃 イラク軍報復 市民5人が死亡 日本人の大多数が住む地区」と伝える。「2軒隣の中庭に爆弾が落ちた」と話す縣正樹さん(62)の住んでいた家は、窓ガラスが割れたり壁が崩れたりし、住める状態ではなくなった。83年からイランの首都テヘランの日本人学校に赴任していた縣さん。妻や子供と地下に避難した際、ずっと大人の悲鳴やうめき声が聞こえていたという。「 … 招致が決まったのはかなり前のことになりますが、そのときライバルだったのがトルコのイスタンブールでした。, もしもトルコに決まっていれば初の快挙でした。 その他、2隻には秋山真之ら海兵17期生が少尉候補生として乗船した。, 串本町では5年ごとに追悼式典が行われており[5]、2008年(平成20年)には訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領が同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し、献花を行った[6][7][8]。, エルトゥールル号の残骸は、2007年(平成19年)からトルコを中心とする数か国から構成される水中考古学の調査団が調査を進めている[9][10][11][12]。2008年(平成20年)にアメリカ合衆国海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げた。錨は未だに見つかっておらず、2010年(平成22年)に沈没地点近くの海底にて探索作業が行われた[13]。, エルトゥールル号の遭難はオスマン帝国内に大きな衝撃を呼んだが、アブデュルハミト2世のもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けて新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。また、このときに新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のオスマン帝国の人々は遠い異国である日本と日本人に対し、好印象を抱いたといわれている。, 茶道宗徧流の跡取りである山田寅次郎も、この事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。山田は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に集まった義捐金を携え、オスマン帝国の首都・イスタンブルに渡った。, 山田が民間人ながら義捐金を持って訪れたことが知られるや彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でオスマン帝国に留まることを決意した山田はイスタンブルに貿易商店を開き、士官学校にて少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブル訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。山田が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされる。, 山田がイスタンブル滞在中に起こった日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシア帝国から圧力を受け続けて同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対し、親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。日本海海戦時の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎提督にちなみ、トーゴーという名を子供につけることが流行したという。, 日本とオスマン帝国の外交当局による国交交渉は何度も行われたが、日本側が欧米列強と同等の待遇の条約を望んで治外法権を認めるよう要求したのに対し、オスマン帝国は不平等条約の拡大を嫌って両者の交渉が暗礁に乗り上げたため、オスマン帝国の滅亡まで正式な国交が結ばれることはなかった。, 1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発するとドイツ帝国ら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫し、山田はイスタンブルの店を閉鎖して日本へ帰国した。この戦争でイギリスら連合国の側についた日本はオスマン帝国とは敵同士となり、戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、1924年(大正13年)発効のローザンヌ条約締結・1925年(大正14年)の大使館開設により、日本政府とトルコ共和国政府は正式に国交を結んだ。, 1985年のイラン・イラク戦争で、イラクは、イラン上空の航空機について、48時間後から無差別に攻撃すると宣言した。当時の日本国は、自衛隊による在外邦人救援ができなかった。日本で唯一国際線を運航していた日本航空も「安全の保証がされない限り臨時便は出さない」とし[14]、日本人がイランから脱出できない状況に陥った。日本の大使がトルコの大使に窮状を訴えたところ、トルコ航空は自国民救援のための旅客機を2機に増やした。215名の日本人はこれに分乗し、全員トルコのアタテュルク国際空港経由で無事に日本へ帰国できた[注釈 1][注釈 2]。, この逸話は2002 FIFAワールドカップでのサッカートルコ代表チームの活躍を機に、テレビ番組や雑誌で取り上げられた。2004年にはこれを紹介した児童書が小学生高学年向けの読書感想文コンクール課題図書になった[注釈 3]。2007年、エルトゥールル号回顧展[16]にあわせて東京都三鷹市の中近東文化センターでこの逸話に関するシンポジウムが開催され、当時の関係者[注釈 4]が出席した。, 2015年、ターキッシュ エアラインズは日本乗り入れに使用しているエアバスA330型機「KUSHIMOTO号」に、1985年当時のデザインの特別塗装を施した[注釈 5]。, 串本町は、トルコの2つの町と姉妹都市提携をしている[注釈 6]。樫野埼灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われている。事件から125年となった2015年には、トルコ海軍の軍艦ゲティズが下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町で行われた追悼式典に参加した[17]。, 2012年2月から3月にかけて日本の外務省がトルコの民間会社に委託して行った調査によると、トルコでエルトゥールルの遭難事件を「知っている」と回答したのは29.9%だった。同じ調査で、近年の日本の経済協力案件である第2ボスポラス大橋は44.9%、マルマライ計画は52.5%だった[18]。, トルコ機は、陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を優先。この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出することとなった。, 第50回青少年読書感想文全国コンクールの小学校高学年の部(5・6年生)課題図書。木暮正夫/作、相澤るつ子/絵『救出 日本・トルコ友情のドラマ』(, ターキッシュエア、30年前テヘラン救出便の特別塗装機 映画公開記念で Aviation Wire(2015年11月30日), トピック > “明治150年”神戸検疫所の歴史年表を公開します。 > 神戸検疫所の歩み等, http://web.archive.org/web/20090207160122/http://www.agara.co.jp:80/modules/dailynews/article.php?storyid=118744, http://web.archive.org/web/20090207160202/http://www.agara.co.jp:80/modules/dailynews/article.php?storyid=118787, トルコ海軍のフリゲート艦「ゲディズ」が晴海埠頭に入港 THE PAGE 2015年6月5日, 究極の吹奏楽〜小編成vol.2『エルトゥールル号の記憶 - 太陽と新月の絆 -/清水大輔 - ロケットミュージック ORG-22, http://www.turkey.jp/jp/ertugrulfrigateJP.htm, http://www.dzkk.tsk.mil.tr/English/Tarihce/ErtugrulFirkateyni.asp, http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1890--ertugrulJIKEN/index.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=エルトゥールル号遭難事件&oldid=79618414, 森修『トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難:日本・トルコ友好の偉大な礎石』(日本トルコ協会, 山田邦紀、坂本俊夫『東の太陽、西の新月-日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』(. そして2015年には、エルトゥールル号遭難事件を題材に日本とトルコ合作の劇場映画公開も決定しています。映画鑑賞の前に是非、串本町に足を運んでトルコと日本の百数十年にもわたる長い絆のルーツを確認されてはいかがでしょうか? 最近はテレビで取り上げられたり、教科書にも載っていることがあるので、ご存知の方も多いかもしれませんね。, エルトゥールル号は、日本の皇族(小松宮彰仁親王・同妃)のイスタンブール訪問に対する返礼と海軍の訓練を兼ねて日本へやってきたのです。, イスタンブールを出たのが前年1889年7月14日。 反日国と言えば中国、韓国、北朝鮮が挙げられます。しかし、日本に対して敵対意識のある国はこの三つだけであり、親日国の数はこれよりももっと多いです。 1928年には、日土貿易協会主催で、エルトゥールル号の遭難で命を落とした犠牲者の追悼祭が、大島の樫野崎で行われた。まさに寅次郎は日土関係の架け橋として活躍したのである。 親日的なトルコ. 不幸にも、その2日後、台風による高波で難破&沈没してしまいました。, 惨事が発覚したのは船員達のうち数名が、近くの灯台下の崖に流れ着いたからです。 2020年の東京オリンピック。 JALに依頼するも、「いやいやいやいや危なすぎるでしょ!死んだらどうすんの!」という労組の反対によって飛行機を出すことができません。, その間にも時間はどんどん過ぎていき、ついに日本からの飛行機が間に合わない時刻になってしまいました……。, と思われたその時、イランの空港で救助を待ちわびていた日本人達の前に、見慣れぬ飛行機が降り立ちます。, 実は、当時の在イラン日本大使が個人的に在イラントルコ大使と親しく、そのツテでトルコ本国に救援を依頼することができたのです。, このときトルコ大使・ビルレル氏は 【説明】駐日トルコ大使ヤマン・バシュクット氏は,平成13年5月6日の産経新聞紙上で, 次のように述べています。 「特別機を派遣した理由の一つがトルコ人の親日感情でした。 その原点となったのは,1890年のエルトゥールル号の海難事件です。 国民の親日感情の始まりは船の沈没から. ☆トルコと日本(AA劇場)☆ 注)2chに投稿された名無しさんの文章をもとに制作しています。 37 名前: 1/1 1/2 投稿日:04/04/04 14:14 ID:XLVeTaNc トルコ側に強い印象を与えたと思われる。 そして1890(明治22)年、アブデュル・ハミト二世は小松宮親王訪土の答 礼、日土条約締結促進、トルコの海軍力強化および汎イスラーム主義啓蒙を目 的に、軍艦エルトゥールル号を日本に派遣するのである。 トルコが親日になるきっかけは、1890年のエルトゥールル号事件でした。その後、1894年に始まった日露戦争で日本がロシアに勝利したことも、親日感情に拍車をかけることになりました。 2-1.エルトゥールル号 … 日本人のトルコのイメージはヨーロッパとアジアの間にある国という認識が多いのではないでしょうか。トルコの人は親日家がとても多いのですが、トルコはなぜそれほど親日だと言われているのでしょう … 世界中がそうして繋がっていけば、人や国同士の争いも多少は軟化するでしょうか。, 和歌山県串本町に建てられたエルトゥールル号遭難事件の慰霊碑/wikipediaより引用. 親善航海のため寄港した軍艦エルトゥールル号(排水量2,344トン、全長 約76m)は1890年9月16日夜半、帰航の途中、和歌山県串本町の紀伊大島沖で、猛烈な台風のために岩礁に激突、蒸気機関が爆発し二つに割れ沈没した。 この海難事故で、艦長以下587人が殉職。紀伊大島の島民たちの必死の救助で助かったのは、わずかに69人に過ぎなかった。しかし、この献身的な救助活動は、トルコ国民に直ちに伝えられ、今でも … 「いやいや、大丈夫です( ー`дー´)キリッ」, 資金や船を動かすための石炭も乏しくなってきたオスマン帝国一行は聞き入れず。